HOT・Bは1980年代のゲーム勃興期から90年代前半にかけて活動したゲームメーカーである。斬新な発想のもと数々の作品をリリースし、近年Nintendo Switchから復刻されて話題となった「星をみるひと」なども、この中のひとつである。今回はこのHOT・Bの代表作のひとつであり、ファミコン進出第一号の「ザ・ブラックバス」という釣りゲームをとりあげたい。
この作品を最初に手掛けたのは専務の勝又展だった。HOT・Bが広告代理店ファーストファーマーズであった時代、社内唯一の理系の勝又は、「コンピュータに強い広告代理店」というセールスポイントを一手に担う存在であった。顧客CSKからの声掛けに応じ、ゲーム業界進出を牽引したのも勝又である。その勝又が自身の趣味の釣りとかけあわせて開発したゲームが「ザ・ブラックバス」なのだ。
約十年にわたる活動期間中、HOT・Bは「ザ・ブラックバス」を何度もバージョンを変えてリリースした。一度目は1984年パソコン版、二度目は1986年MSX版、三度目に1987年ファミコン版、四度目は1988年、ファミコン第二弾の「ザ・ブラックバスII」、その後スーパーファミコン版も発売され、派生作品「キングサーモン」「ザ・ブルーマリーン」なども登場した。当初パソコンゲームだけだったHOT・Bがいかにしてコンシューマ業界に参入したのか、当時のコンシューマゲームの大筆頭だったファミコンへの進出を中心に作品の経緯をたどってゆきたい。
1984年、それまでCSKの下請けゲームメーカーだったHOT・Bは、独自レーベル「GA夢」を立ち上げて、自分たち名義の作品をリリースし始めた。「ザ・ブラックバス」は、同年ほぼ同時期に制作されたとみられる「サイキックシティ」 「西部の成りあがり」「西遊記」とともに、このGA夢レーベル初期の主要作品のひとつである。発売されたのはPCー8801、PCー8801MKII、FMー7、FMー8。
付属の解説書の表紙には、「フィッシングシリーズPart1 フィッシング THE BLACKBASS(実践・釣りシミュレーション)」というタイトルと、ルアーめがけて水面から躍り出るバスのイラストが描かれている。「シリーズ」とあるのは、今後他の魚のゲームも継続してリリースしてゆこうという意図であったか。
バス釣りなるジャンルへの特化ゆえ、解説書の説明は「ブラックバス概論」としてバスという魚の何たるかから始まる。バスの生息地や生態、バス釣りの発祥や日本への移入の歴史などが解説される。「バス釣りの醍醐味」という部分を以下に引用しよう。
「本格的な釣りマニアには食事すらも欠く程の痛快さがあるというバスフィッシング。果たして何がそんなにもフィッシャーの血を騒がすのか?何といっても、それはバス釣りの持つギャンブル性であるというものも多い。日ごとに変わるバスポイント、水温、気候などによるバスの環境順応力、ルアーのロッドにもより変る一日の成果。バスのルアーへのアタック、ロッドへのあたりなど、バスの豪快の(原文ママ)パワーが体に響き渡る。ひと度この感覚を体にすると、フィッシャーは次への意欲を更に燃やし奥深くのめり込んでいくそうです」
バス釣りの特質を語って並々ならぬ気迫を感じさせる。そのあとようやく機械の動かし方、プレイの説明が登場する。「まず、いつ釣りに行くのか決める」「同行者を誘う」「どこの湖に行くか決める」「湖での釣り地点を決める、ルアーを選択する」。そして「いよいよルアーをキャスティング(投げる)」、ただし「水面のどこに落とすか?それが問題」だ。
釣りが趣味だった勝又は、魚の特質を踏まえた本格的なゲームづくりに腐心した。内部資料の「HOT・B商品一覧表」(パソコンソフト)によると、GA夢シリーズ主力商品の発売本数は、「西部の成りあがり」3000本、「西遊記」2000本、「サイキックシティ」8000本。「ザ・ブラックバス」は10000本発売しており、堂々のトップとなっている。
上 パッケージラフ
下 正式パッケージ
さて、この「ザ・ブラックバス」は、1987年、HOT・Bのファミコン進出第1号作品となった。企画立案は、「サイキックシティ」「カレイドスコープ」などを手掛け同社の開発の主力となっていた栗山潤。企画開発は前年にさかのぼる。
1986年、栗山は、当時社会現象を巻き起こしていたファミコンゲームを出したいという野心をいだき、高橋輝隆社長に打診した。そこでふたつの条件を示される。ひとつは「勝又と組み企画や開発を進めること」、もうひとつは「開発を3か月で完了すること」だった。これを受けて栗山はパソコン版「ザ・ブラックバス」をファミコン向けにアレンジする企画を立て、ゴーが出た。
初プラットフォームで3か月という開発を成功させるため、栗山は会社の近所にアパートを借り、そこに寝泊まりして開発を進めた。残された資料で確認できる限りでは1986年6月21日には企画が動き出していたことがわかる。
初期の企画書にはこのように記されている。
[企画意図] これまでのファミコンソフトには、シュミレーション(原文ママ)ゲームというものがほとんど存在しませんでした。強いてあげるならば各種スポーツゲームがそれに相当しますが、どちらかといえば、それらはアクションゲームに近い性格のものです。
ところがこの『ザ・ブラックバス』は、スポーツゲームでありながらなおかつ高度なシュミレーション性を備えています。したがって、このソフトをファミコン向けに改良することにより、ファミコン初(?)の釣りシュミレーションゲームとして、新たなジャンルを切り開くことができるのではないかと考えています。
[基本改良点] パソコン版を改良するとは言うものの、実質的には、最初から設計することになるでしょう。釣り条件を決定する気候・水温・時間・深度・バス分布・ルアーの種類などのデータは、パソコン版のものを流用することは可能です。
〇パソコン版で欠けていたゲーム性、”競う”部分を取り入れる。
〇ファミコンの速いスクロールを活かし、スムーズな動きを実現する。
〇シュミレーションという基本線は守りつつ、ファミコンの遊びの部分を取り入れる。
〇MUSIC・SEの強化
〇初心者から釣りマニアまで楽しむことのできるゲーム設計
上 ゲーム画面の初期案
下 実際のゲーム画面
パソコン版「ザ・ブラックバス」で培ったノウハウを生かしつつ、ゲーム性をより引き上げたエンターテインメント性のある形態を目指していたことがうかがえる。
だがその実現は決して容易でなかった。まず、用意したゲームプログラムツールがグラフィックツールとうまく連携しなかった。苦肉の策として、グラフィックツールで描いた絵を一旦コードに置き換えて印刷し、印字されたコードをプログラムツールで打ち込んでゲームに反映させたという。こうした暗中模索の手探りを経ながら、HOT・B初のファミコンソフトの開発は少しずつ形になっていった。
企画書の「ゲーム性、”競う”部分を取り入れる」制作方針に基づいて、「バス釣り大会」なる舞台が設定され、2回の予選と3日間の全国大会が用意された。パソコン版にあった「同行者」の存在はなくなり、解説書には、バス釣りに適した天気、最適水温、釣りやすい時間帯、バスの誘い出し方などを記した「バス釣り必勝テクニック」が付いた。ルアーもパソコン版では名称だけだったのが、それぞれの特性が簡潔に説明されるようになった。
面白いことに、ここではバス以外の魚も数種類登場する。「釣果としてカウントはされないが」と但し書きを添えて、「全国大会で「珍魚」として表示される、余裕のある人はのんびりと釣ってみてはどうでしょう」とあり、へらぶな、うなぎ、いわな、にじます、いとう、らいぎょ等、さまざまな魚が顔を揃える。
当時の栗山直筆のスケジュール表を見ると、当初は1986年12月10日を発売予定とし、マスターROMの提出は10月末日で計画されていたが、最終的に発売は1987年2月6日となった。
『ファミリーコンピュータmagazine』1987年2月号には4ページにわたってこのゲームの紹介が載っている。また栗山たちは、釣り雑誌『フィッシング』とも提携し、読者プレゼントばかりでなく「愛読者誌上販売」もおこなって販促に努めた。(1987年4月号)
『ファミコン必勝本』1987年4月17日号、「突然面白企画」のコーナーでは、このファミコン「ザ・ブラックバス」に釣り好き一家が全員で挑む企画が行われている。一家の釣りリーダー、お父さんいわく「本当の釣りではヒットするまでの駆け引きのほうが難しいけれど、このゲームでは釣り上げるまでの方が数段難しいですね。でも本当によくシミュレートされていて、よくできています」
栗山はこの『ファミコン必勝本』編集部に「ザ・ブラックバス」の企画をふたつもちこんでいるが、これはそのA案「釣り名人が釣りゲームをやったら」にあたる。ちなみにB案は、「芦ノ湖畔『ザ・ブラックバス』ゲーム大会」で、「バス釣りのメッカ芦ノ湖畔のホテル、旅館、コテージなどにスペースをもうけ、バス釣り大会を開催する」というもの。企画書には「インドアでアウトドアをしよう、というゲームのコンセプトにひっかけたイベントです」とあり、本作のキャッチコピー《 釣り人は、部屋にたてこもる 》もまた、それを意図していた。
バス釣りの特徴を押さえながら説明を強化して門戸をひろげ、競技のスタイルで盛り上げる、さらにバス釣り無視の釣りの楽しみまで取り込んだ。これが、栗山と勝又の考えたファミコンゲームの世界だった。
ファミコン人口という大きなパイを相手に新鮮なコンセプトを掲げた「ファミコン初の本格的釣りシミュレーションゲーム」は、ファミコン少年少女たちにHOT・Bの存在を知らしめたといえる。
最後にひとつだけ、ファミコン版「ザ・ブラックバス」が、HOT・Bのアメリカ進出時、現地で爆発的に売れたことを言い添えておきたい。詳細は後の回で解説するが、HOT・B北米支社の発展に大きく貢献したのはこの作品だった。
下請けから独自レーベルをもつゲームメーカーへ、ファミコンソフト発売へ、さらにゲームの本場アメリカへ。HOT・Bが新次元に挑戦するとき「ザ・ブラックバス」は常にその先陣役を担っていた。また売上的にもHOT・Bの屋台骨となり、SF路線など同社の野心的な冒険を下支えしたのである。
HOT・B倒産後、高橋輝隆社長はじめ一握りの元社員たちは「スターフィッシュ」というゲームメーカーを立ち上げた。フィッシュという語を社名に含む新会社は、まず、倒産前リリースを果たせなかったスーパーファミコン版「スーパーブラックバス」の第二弾を制作した。
このスターフィッシュに現在勝又の姿はない。勝又の早すぎる逝去は古い仲間たちにきわめて大きな打撃であった。だが、勝又や栗山たちの残した「ザ・ブラックバス」の膨大な記録は、当時のゲーム制作状況を振り返る上で、HOT・B一社にとどまらぬ貴重な資料となっている。
HOT・Bの斬新な発想力は多彩な作品として現れた。動作の遅さはしばしば大きな課題となったが、それすら裏返せば無二の個性と感じさせる、特異な魅力をもつゲームを彼らは作ってきた。魅力的な作は数々ある。しかし「ザ・ブラックバス」は特別だ。
「ザ・ブラックバス」の版権は現在もスターフィッシュの手元にある。それはかれらの出てきた源を示している。そしてこの先、再び新たな挑戦へ進もうとするならば、きっと行く手をひらいてくれるだろう。