HOT・Bは1980年代前半から1990年代前半にかけて活動したゲームメーカーである。国産ゲーム勃興期からバブル崩壊後まで生き抜き、個性あふれるさまざまなゲームを開発した。2020年、同社のファミコンゲーム「星をみるひと」がNintendo Switchで復刻されて話題となったのも記憶に新しい。本稿はこのHOT・Bの足跡をたどってその挑戦の歩みを追い、ゲーム史に寄与せんとするものである。

一 ファミコンゲーム進出

前回はHOT・Bのコンシューマゲーム(家庭用ゲーム)業界への進出をとりあげた。その第1作「ザ・ブラックバス」は、ファミコン初の本格釣りシミュレーションゲームとして人気を博し、長年にわたる同社の屋台骨的存在へと成長していった。

世がファミコンブームに沸いていたこの時期、同ジャンルへの参入はHOT・Bの活動に大きな弾みと広がりを与え、同社はこの時期をひとつの節目としてさらに多様な活動へと踏み出してゆく。今回はこの1987年前後、さまざまな繋がりの中で地歩を固めるHOT・Bの様子を紹介する。

1987年3月、HOT・Bはファミコンゲーム第1弾「ザ・ブラックバス」を発売した。もともと「ザ・ブラックバス」は役員の勝又展によるパソコンゲームだったが、同社の栗山潤が勝又と組んで、より広い層へ向けた遊びやすさと新種の工夫を加え、ファミコンゲームとしてリリースしたのである。

1987年秋、ファミコンゲーム第2弾「星をみるひと」が発売される。企画は沖中日出光。このとき沖中はすでに独立していたが、HOT・Bの高橋輝隆社長のもとにこの企画をもちこみ同社にて開発を進めた。この作品に関しては過去の記事にて可能な限り詳細に掘り下げているため割愛するが、あらゆる方面にHOT・Bの名を今日まで響かせた一作であることに間違いはない。

ひきつづき1988年3月、ファミコンゲーム第3弾「武田信玄」が発売される。折しも「ドラクエIII」が圧倒的な強さでゲーム業界を席巻した時期だったが、この年のNHK大河ドラマは「武田信玄」。これに当てたHOT・Bの「武田信玄」も、番組人気にあやかる形で、過去にない好調なセールスを上げた。高橋社長によれば「30万本以上」の記録的な出荷となり、資金繰りに苦しむ同社に大きな恵みをもたらした。

ゲームの内容は、甲斐を取り巻く十二の国々との国盗り合戦に勝ち残り、信州を平定して京に攻め上るまでを扱う戦略シミュレーションゲームである。「徴兵、金山、信玄堤、乱波(忍者)、出兵、鉄砲、農地政策、友好、城造り、売買、医者、軍師」の十二のコマンドを使って地道な領地経営に腐心する行程は、まさに大河ドラマの骨太感をほうふつとさせる。

ちなみにこの作品はHOT・B自身の開発ではない。制作元のノバは、某筋で「星をみるひと」の好敵手ともされる「たけしの挑戦状」を作ったメーカーとして知られるが、ここでも遺憾なくその実力を発揮している。

二 アーケードゲーム業界への進出 「中華大仙」

さて、次々にファミコンゲームを発売してゆくHOT・Bであったが、こうしたサードパーティーの一翼に連なることで同社は横の繋がりを強化し、さらなる新しい試みに挑戦していった。1987年、HOT・Bは、もうひとつ大きなジャンルに参入する。すなわち、タイトーとの提携によるアーケードゲーム市場への進出だった。

「中華大仙」ゲーム画面

タイトーは、「スペースインベーダー」など数多くのヒット作を世に送り出し、ゲームセンターの一角で大きな存在感を見せていた。HOT・B初のアーケードゲーム「中華大仙」は1988年6月ごろにはその稼働が確認されている。「西遊記」の世界観をモチーフに、筋斗雲に乗った仙人マイケル・チェンが、水墨画調で描かれた世界を飛びまわる。

本作は当時すでにアーケード界隈で飽和状態ともいえるシューティングゲームだったが、巧みなビジュアル戦略で人目を引く仕上がりとなった。企画はファミコン版「ザ・ブラックバス」を成功させた栗山潤。本作の前に「星をみるひと」に参加していた木下亮が主に背景グラフィックを手がけ、本作の世界観を彩った。

またこの開発にあたり、タイトーは独自に実用化していたグラフィックツールを貸し出していた。ツールを使用できる人物として本作に参加したスタッフの一人に、1986年VAP発売のファミコンゲーム「元祖西遊記伝スーパーモンキー大冒険」でデザイナーを務めたナカジマカオルの姿があった。

こうした横の繋がりは、特に日本パーソナルコンピュータソフトウエア協会(現・ソフトウエア協会)において育まれていたようだ。「パソ協」といわれて名高いこの協会は、1982年、孫正義を会長として発足したソフトウェア会社の連携を標榜する団体だが、HOT・B高橋社長は一時期このゲーム流通委員会の副委員長を務めており、ここでタイトーとの繋がりを得た。高橋社長によれば、タイトー関係者からの「ファミコンをやっているなら、アーケードの開発もいけるのではないか」との話を受け、同ジャンル進出に至ったという。

三 別業界とのコラボレーション 異色の「D‐PHOTON」

HOT・Bの他社との連携は、全く別業界とのコラボレーションとなったこともあった。早川書房・ビクター音楽産業と提携した「D-PHOTON」ブランドの立ち上げがそのひとつである。早川書房で出版されていたSF小説を、パソコン向けアドベンチャーゲームとしてリリースするという企画であり、パッケージや一部タイトルの開発をHOT・Bが請け、ビクター音楽産業が発売元となるという形であった。

専用にデザインされたロゴはFDスリーブケースにも使用されていた

1987年1月、HOT・Bが開発に携わった神林長平『敵は海賊』のゲーム化作品「敵は海賊 海賊版」がPC‐8801SR用タイトルとして発売された。本作は同名小説を題材としつつもオリジナル要素を強めた作品で、ゲーム独自の物語を楽しむことができた。このほかD‐PHOTON」は栗本薫の長編ファンタジー「グイン・サーガ」もリリースしたが、最終的に同ブランド名義のタイトルは数本にとどまっている。

四 1987年前後の動向「ムーンチャイルド」

HOT・Bの足跡をたどってゆくと、広告代理店という出自が陰に陽に関わっているのを感ずることがある。社長の高橋輝隆は、ゲーム開発の具体に疎遠であることを隠さなかったが、その寛闊な人柄と広告業界由来の外交力をおおいに発揮して、業界での同社の地位向上につとめた。1987年のファミコン進出を機としたサードパーティーたる地歩の確立、アーケードゲームへの進出、出版社とのコラボレーションなどは、こうした巧みなコミュニケーションの上に築かれたものといえるだろう。高橋はまたコピーライターとして同社の新作ゲームのタイトルを常に考案し、HOT・Bのイメージ伸長に積極的に関わった。

この1987年、ファミコン第2弾としてリリースされた「星をみるひと」は、HOT・B最大の問題作として名を馳せたが、発売当時は至って地味な存在であった。開発したのは沖中日出光。1984年沖中が栗山潤と制作し国内初のSFRPGとして評価された「サイキックシティ」を換骨、発展させた形となっている。

「サイキックシティ」のあと沖中は1985年、SFRPGの大作「カレイドスコープ」シリーズを制作した。現在わかっている限りでは、この第二作「発・汗・惑・星」の頃には沖中は社を離れ、制作は栗山に託されたという。だがその後も沖中はフリーランスとしてHOT・Bに関わり、パソコンゲーム「ムーンチャイルド」、ファミコン「星をみるひと」、1991年のメガドライブ「ブルーアルマナック」に至るまで、絶えずSFRPGにこだわりつづけた。

さて、ここでとりあげたいのは、同社のファミコン進出前夜、フリーランスの沖中が制作したSFRPG「ムーンチャイルド」についてである。シャープ製パソコンMZ‐2500用ゲーム「ムーンチャイルド」は、ファミコン第1弾「ザ・ブラックバス」リリース半年前の1986年9月に発売された。

MZ-2500版のセット内容

この企画はシャープから、同社の主力パソコンMZシリーズのうち、ホビー向けとしてハイエンドクラスにあたるMZ‐2500の性能を存分に活用したゲームを開発してほしいとの依頼によって立ち上がった。開発の要望の中には、当時革新的であった通信モデムを使用したゲームをつくることが含まれており、これをSFRPGの中に落とし込んだ「ムーンチャイルド」は、きわめて大きな先駆性をもつ作品となった。

本作はモデムを使用したゲームデータのネットワーク通信や、MZ‐2500本体のカセットデッキを利用した肉声のボイス表現といった、革新的な試みが多数されている。まず、通信とゲームの絡みを実現させ、プレイヤー同士それぞれが育てたキャラクターをお互いのゲーム内で活躍させることができた。そして本作はゲーム本編が収録されているフロッピーディスクとは別に、音声が収録されたカセットテープを本体のカセットデッキにセットしてゲームと同期させることで、特定部分で肉声を流す演出を入れることに成功した。

キャラクターデザインは、後に「新世紀エヴァンゲリオン」の使徒をデザインする漫画家あさりよしとお。パッケージには主役をかたどったキャラクターフィギュアが三体入っており、プレイヤー自身で彩色を施すことでより世界に没入できる。

なお、開発予算はシャープから出ていたが、その分条件や納期などは厳しく定められていた。翌1987年、PC‐8801・PC‐9801版向け「ムーンチャイルド」も発売され、このときMZ‐2500独自の機能で成り立っていたネットワーク通信やボイスはオミットされた。

沖中はこの後、ファミコン「星をみるひと」の制作にとりかかった。試行錯誤のなまなましい痕跡、先駆的な問題意識、スピリチュアルな嗜好、スペースオペラの壮大さなどが詰め込まれた本作は、仕様の理不尽さとも相まって後世に強烈なインパクトを与え、しばしばHOT・Bをその延長線上でイメージさせることとなった。

HOT・BのSFRPG路線は、その意欲的な革新性で評価される点は多かったが、第一作「サイキックシティ」を除けば総じて特に成功したものとは言い難い。一方でファミコン、アーケードに進出したHOT・Bは、高橋社長の外交力のもと、勝又展・栗山潤を中心として着実に地歩を固めていった。その歩みと「星をみるひと」に発するHOT・B観の双方とを併せ見るとき、われわれは一ゲームメーカーの多様な相貌に目を見張るのである。

HOT・Bはこの後さらなる転機を迎えることとなる。それはこの中小ゲームメーカーの世界進出の野望へと繋がってゆくだろう。次回はセガ、メガドライブへの参入にスポットを当てる。