HOT・Bは1983年から1993年にかけて活動したゲームメーカーである。同社のファミコンゲーム「星をみるひと」は、その世界観の卓抜さと操作性の理不尽さとでレトロゲームファンの間に勇名を馳せ、近年Nintendo Switchで復刻されて話題を呼んだ。本稿はこのHOT・Bの足跡を追い、当時の中小ゲームメーカーの視点からゲーム史の流れを振り返ろうとする試みである。

前回は、1987年HOT・Bが釣りシミュレーションゲーム「ザ・ブラックバス」でファミコンに参入し、またアーケードゲームにも進出するなど業界内で地歩を固めてゆく様子を概観した。

今回はHOT・Bのファミコン後続作を紹介するとともに、これに続く1988年から89年、同社が経験したふたつの大きな出来事を扱いたい。すなわちアメリカ進出とセガ・エンタープライゼス(以下セガ)・メガドライブへの参入である。前者によってHOT・Bは北米ゲーム市場の桁外れの規模を経験し、また後者からは競合する大企業のはざまに立つサードパーティとしての憂悶などをも受け取った。コンシューマゲーム(家庭用ゲーム)の圧倒的王者、任天堂。メガドライブで反転攻勢をかけるセガ。両者の競合はさまざまな場面で展開されたが、今回のふたつの出来事は、まさにその渦中で揺れながら勝機を狙った中小ゲームメーカーの心情を覗かせる。

なお、この時期HOT・Bは、創業時からの拠点だった東中野から北新宿へ社屋を移転した。積極的な事業展開をはかるHOT・Bの80年代末は、野心とジレンマの中に在る。

北新宿へ移った際の社屋、松本3号ビル。現在は取り壊されている

1 ファミコン開発の進化

1988年から89年、HOT・Bは、ファミコン「ザ・ブラックバスII」「武田信玄2」をリリースした。これは1987年、同名のパソコンゲームを移植した同社のファミコンデビュー作「ザ・ブラックバス」と、二作目「星をみるひと」を経たファミコン第三作目「武田信玄」の発売に続くものであった。

どちらも最初の粗削りな点を解消して遊びやすさの工夫がみられ、いわゆる続編というよりアップデートといったおもむきがある。特に「武田信玄2」は前作がノバによる開発だったのに対し、今回は企画から開発までHOT・B自身が手掛けて同社の個性やファミコン開発の練度をみせるものとなった。

「ザ・ブラックバスII」はビジュアル面の強化が大きかった。前作では釣り糸を垂らしてルアーを引くのが真横からの視点だったが、今作は水面から見下ろす視点で、より実際に近い形となった。臨場感のあるビジュアルで、一気にゲームへの没入感が増したといえる。

「武田信玄2」はこちらもビジュアル面の強化が図られたほか、正攻法ではクリアが難しかったゲームバランス面など数々の部分が改善された。また前作との大きな違いとして、歴史上の出来事をゲーム内のイベントとして登場させ、史実をなぞりながらプレイヤー自身が新たな展開を生み出すという、ゲームならではの醍醐味が加わった。

信玄が実父信虎を追放したことは有名だが、ゲーム内の災害にこの信虎の出現が含まれ、実父が物資や姫を奪っていくイベントが発生するのは、いかにもHOT・Bらしい茶目っ気を感じさせる。

2 北米市場への参入

ここで少し前のアメリカのゲーム市場を振り返ってみたい。ちょうど80年代中ごろから、ビデオゲーム先進国のアメリカはコンシューマゲームの低迷期を迎えていた。圧倒的シェアを誇ったアタリのコンシューマゲームがソフトの粗製濫造でファン離れを招いた、いわゆる「アタリ・ショック」の影響である。

この停滞に風穴を開けたのが任天堂だった。1985年、任天堂は海外版ファミコンハード「NES」(Nintendo Entertainment System)で北米市場に参入し、圧倒的な人気を獲得した。言わずと知れた「スーパーマリオブラザーズ」、NES本体に同梱された周辺機器の光線銃と併せてプレイする「ダックハント」、日本ではディスクシステムの普及に寄与した「ゼルダの伝説」、奥深い探索とダークな世界観で国内以上の人気を得た「メトロイド」など、任天堂は自社ソフトを次々と送り出す。また自社ソフトのみならず、カプコンの「ロックマン」(海外名MEGA MAN)、コナミの「悪魔城ドラキュラ」(Castlevania)などサードパーティー開発の作品も大きな存在感を発揮した。

現地の活況は中小ゲームメーカーをも海外進出に駆り立てた。1988年10月、HOT・Bは現地法人としてカリフォルニアにHOT・B USAを設立する。代表に高橋輝隆社長の大学時代の知人、石川賢治を就け、1989年8月、第一号タイトル「Cloud Master(中華大仙)」をリリースした。これは1988年HOT・Bが開発したアーケードゲーム「中華大仙」のセガ・マスターシステム版で、国内未発売である。

だがそもそも海外への夢は、それより数年前からHOT・Bの中に芽生えていたのかもしれなかった。というのも彼らはパソコン版「ザ・ブラックバス」のリリース時、海外のパソコンユーザーから「自分の国向けに『ザ・ブラックバス』を発売する予定はないか」と問い合わせを受けていたのである。だが当時のパソコンはメーカーごとにプログラム言語が異なり、開発には多大な困難が予想された。結局このとき海外版の開発は見送られたが、これが海外でのバス釣りゲームの需要をかれらにいち早く認識させたのは間違いないところだろう。

そこにファミコンという環境が加わった。「NES」は日本のソフトは操作できない構造だが、その内部は国内ファミコンと同一のプログラムが走っている。国内のファミコン版があれば、一からつくる手間をかけずにローカライズ版を用意できた。

HOT・Bは、北米向けファミコンタイトルの第一作を「ザ・ブラックバスII」と決め、ローカライズにあたってタイトルを「THE BLACKBASS USA」に改題、89年9月にリリースした。この作で高橋社長は北米市場の大きさを身をもって知ることとなる。「THE BLACKBASS USA」は国内とは段違いのセールスをたたき出したのだ。高橋いわく「ゼロが一桁違っていた」。続いてリリースした「武田信玄2」の北米版「Shingen The Ruler」も国内版以上に数字を伸ばした。国内の一中小ゲームメーカーにとって、それはまさに平常心を失わせるほどの体験だったという。

3 セガ・メガドライブへの参入

さて、HOT・Bが北米支社を設立した時期は、国内ゲーム市場においてもきわめて重要な時に当たっていた。まさに同じ1988年10月、セガがメガドライブを発表したのである。

元来セガはコンシューマ市場では任天堂と同時期に商品展開を始めていた。1983年7月に初のコンシューマハードSG‐1000、85年10月にはセガマークIIIをリリース。だがアーケードゲームで強力な存在感を発揮する一方、コンシューマゲームではずっと任天堂の後塵を拝していた。このメガドライブは、従来のセガの全コンシューマハードをはるかに振り切る性能を備え、ファミコンの8ビットを越える本格的16ビットCPUを搭載した、まさにコンシューマ市場の形勢を逆転せんとするセガ渾身の一撃であった。

このときセガは開発体制に関しても大きな転回を図っている。それまで基本的にソフトは自社で開発し、一部の他社製品も発売元はセガ名義としていた体制を、ここで一新したのである。セガはメガドライブから本格的なサードパーティーの受け入れをスタートし、広範囲にソフトを求めたのだった。

このメガドライブのサードパーティにHOT・Bは参入した。きっかけはCSKソフトウェアプロダクツ(以下CSK)の矢野からの誘いだった。CSKの矢野は、HOT・Bが前身の広告代理店だった頃「ゲームソフトをつくらないか」ともちかけて、同社のゲーム業界進出のきっかけをつくった当人だが、この縁ある矢野が、おそらくは1989年に入った或る時期(※注)、「セガのコンシューマハード向けにゲームを開発しないか」と打診してきたのである。CSKは1984年セガに資本・経営参入し、セガとの強いパイプをもっていた。その誘いに乗る形でHOT・Bは新たなプラットフォームへの進出を決め、メガドライブの開発をスタートさせた。

HOT・Bのこうした動きが任天堂を刺激したのは想像に難くない。任天堂とセガは熾烈なライバル争いを展開し、両者一歩も退かぬ緊迫した局面が続いていた。コンシューマゲームでは任天堂のシェアがリードしていたが、セガもまたこのメガドライブ発表を皮切りに89年には北米でGENESIS(メガドライブの北米版)を発表し、俄然攻勢を強めてゆく。海外、そしてメガドライブ。ファミコン発売から五年経ったこの時期、任天堂とそのサードパーティという立場とそれに基づく支配被支配の関係性は、こうしたさまざまな広がりの中で改めて再確認されるものであった。

たとえば1988年11月、ファミコンサードパーティの筆頭格ナムコは、任天堂を相手どって京都地裁にひとつの訴訟を起こしている。ナムコと任天堂のファミコンソフトに関する契約により北米でのファミコン「NES」ソフトの製造・輸出の権利を仮に認めるよう求めたもので、翌89年3月、この仮処分申請は却下された。

その数か月後の7月25日におこなわれた任天堂とナムコのライセンス契約更改は、この流れの決着として注目される。すなわち、それまでナムコがサードパーティ初期参入組として受けていた優遇措置を解除し、他社並みの条件とするというものだった。これを伝える『ゲームマシン』1989年9月1日号は、その記事を以下のように結んでいる。

「ナムコは、日本電気HE「PCエンジン」用にソフトを供給しており、セガ社「メガドライブ」用ソフトも供給する予定である。また実現するかどうか未定だが、ナムコは自社製ハードの計画も持っている」

自社の有力サードパーティが、国内の優遇措置を盾に海外での自由な裁量権を希望しながら、競合メガドライブのソフトも開発している……任天堂の憤懣の度もしのばれるが、無邪気な野望に燃えるHOT・Bのメガドライブ参入がまさにこうした紛争の時期であったのもまた無理からぬことであった。

HOT・Bの高橋社長は言う。会社レベルでの圧力は記憶にない。ただ、確かその頃、京都の任天堂本社に呼ばれたことがある。本社での商談は過去何度も経験していたが、その時は様子が違っていた。普段の応接室でなく倉庫のような窓のない一室に通されて、担当者にこう尋ねられた。

「おたく、セガさんと取引されるんですってね」

現場にみなぎる緊張感を彷彿とさせるエピソードである。

まとめ

HOT・Bの海外ファミコン第一作「THE BLACKBASS USA」の手ごたえは大きかった。このテーマなら海外でイケるのではという期待が、NES(ファミコン)という共通言語を得て日の目を見た形である。一方、HOT・B USA全体の第一作「Cloud Master(中華大仙)」がセガのマスターシステム版であるという事実は、任天堂とセガのせめぎ合いの中に生きる一ゲームメーカーのリアルを垣間見せる。

HOT・Bのメガドライブ進出は最初から波乱含みだった。第一作となるはずだった「火激」の開発はトラブル続きで何度も延期を余儀なくされ、完成した後も一波乱あった。次回はこのメガドライブ「火激」の開発騒動を取り上げたい。

(注)HOT・Bのメガドライブソフト開発の第一号は「火激」と考えられているが、この「火激」の著作権使用許諾契約を平成元年(1989)年7月10日、株式会社金子製作所とのあいだに交わしたとする書面があり、ここからメガドライブ参入決定は89年上半期ごろと推測される。

北米マスターシステム版「中華大仙」のパッケージ