HOT・Bは1980年代前半から1990年代前半に活動したゲームメーカーである。2020年、同社のファミコンゲーム「星をみるひと」がNintendo Switchで復刻されて注目された。さまざまなメーカーと関わり合い、大手メーカーの波に揺さぶられながらHOT・Bは積極的に活動を広げていった。本稿はその彼らの歩みを追い、一中小ゲームメーカーの目を通したゲーム史をとらえようとするものである。

1 HOT・B、メガドライブ参入の意図を語る

1988年10月、セガは16ビットのコンシューマハード、メガドライブを発売した。このときセガはひとつの重要な方向転換をした。それまで多くを自社でやっていたソフト開発を第三者に広く募ったのである。このメガドライブのサードパーティにHOT・Bはいち早く参入した。前稿に記したが、これはセガに資本・経営参入していたCSKソフトウェアの矢野の声掛けがきっかけであった。当時、同社の開発メンバーの中核にいた栗山潤は『Beep!MEGADRIVE』1990年2月号で次のように語っている。

(編集部)メガドライブに参入しようとした時期は?
(ホット・ビィ(以下ホと略)一昨年の12月から去年の1月くらいにかけてです(1988年12月~1989年1月:池田注)。ちょうどそのころ、新たなターゲット層を模索していた時期でして、かねてからメガドライブには注目していました。そこで1月にラスベガスで行われていたCESショーに行ってみて、メガドライブがアメリカでも発売すると聞いたもので、これは本格的に参入してみよう、となったわけなんです。
(『Beep!MEGADRIVE』1990年2月号「熱血 メガドライブ宣言」)

要は「かねてから」HOT・B自身の問題意識としても新たな層の掘り起こしに期するものがあったというのである。ファミコンのユーザーが比較的低年齢層であるのに対し、アーケードで圧倒的な支持を受けてきたセガは、より年齢の高いユーザー層をもっていた。HOT・Bは既にタイトーとの提携でアーケードに進出していたが、こうした層へのさまざまな食い込みを「かねてから」模索していたということだろう。

ちなみにHOT・Bとセガとの縁はこれ以前にさかのぼる。セガ・マスターシステム版「中華大仙」を製作するため1988年、個別にセガと取り決めを交わしていたのである。この作品は1989年8月、HOT・Bアメリカ現地法人第1弾「Cloud Master(中華大仙)」としてリリースされた。

このインタビューで栗山は「メガドライブのユーザーは15~17歳のビデオゲームのファンが多いというデータ」と「シューティングゲーム、アクションゲーム好きが多いセガのファン層」を挙げ、メガドライブにはビデオゲームからの移植を主におこなうこと、参入第1作に「火激」の移植を選んだことを述べている。また自分たちがファミコンでやってきたシミュレーションゲーム、たとえば「武田信玄2」などは高年齢層にはウケるはずだ、と語り、シミュレーションゲームでの経験と蓄積でメガドライブに貢献できるだろうとの自信もみせている。

だがこの後、HOT・Bのメガドライブ第1作と目された「火激」は大きなトラブルを抱え、最終的に原作の製作元から新聞広告で全否定を受けるに至った。これからその経緯を見てゆくのだが、この移植がそこまでの否定に発展した理由は何だったのか、本当のところはよくわからないのである。独自のユーザー層をかかえたセガ発信の16ビットコンシューマ、その新しい世界へ向かってHOT・Bは進んでゆく。

2 延期を重ねた「火激」の発売日

90年夏ごろには各雑誌で大々的に広告が打たれていた

元来、「火激(KAGEKI)」は1988年、タイトーから発売されたアーケードの格闘ゲームであった。格闘ゲームに火が点くのが1991年「ストリートファイター2」からだから、このジャンルとしては早い時期の作品といえる。

開発は金子製作所で、権利もまた同社がもっていた。1980年に応用電子機器の製造・販売を目的として創業された金子製作所は、ゲーム業界では主にアーケードゲームに進出していたが、1985年、コンシューマ部門の(株)インターステイトを設立し、メガドライブ製作にも名乗りをあげた。

HOT・Bがこの「火激」をメガドライブ第1作に選んだのは、一説にはタイトーの勧めがきっかけだったという。『ファミコン通信』1989年6月23日号の「メガドライブソフト発売予定リスト」に、同年12月下旬発売予定として「火激」の名がみえる。

火激〈KHB〉 価格未定/カートリッジ

KHBのHBは「HOT・B」だろうが、頭のKの意味がわからない。1989年7月10日、HOT・Bと株式会社インターステイト(代表取締役 金子浩)は著作権の取り扱いに関して合意した。また同時期に開発も大阪のメーカーへの外注によってスタートしたようだ。だが当初の発売予定だった同年12月下旬、「火激」はリリースされなかった。ちょうど同時期、HOT・Bとインターステイトは著作権の表記や範囲に関するこまかな調整をしているが、これは遅延に関する何らかの対話をきっかけとした整備であったかもしれない。

1990年6月、HOT・Bが当初メガドライブ第2弾に予定していた「インセクターX」がリリースされた。同年9月7日、「インセクターX」のアレンジ版が、12月10日にはセガの下請けでやったアクションシューティングゲーム「クラックダウン」のメガドライブ移植版が発売されたが、「火激」は発売されなかった。

「火激」の発売は遅れに遅れた。『Beep!MEGADRIVE』誌の新作ソフトスケジュール表をみると、リリースは1990年2月号の段階で同年4月予定、4月号では6月予定、5月号で7月以降と告知され、7月号で10月、10月号は「10月発売予定」と記した広告を載せながらスケジュール表では12月以降と記しており、果てしなく下へズレ落ちてゆく感がある。

Beep!メガドライブ1991年5月号より 発売を目前に控えた段階でのコメント

1991年4月26日、ついに「火激」はリリースされた。スタートからほぼ2年近い月日を経過し、数々の作品に先を越されたあまりにも遅い発売だった。そしてその当日、読売新聞朝刊の社会面下段右端に次の広告が掲載された。

「家庭用TVゲーム ユーザーの皆様へ
4月26日発売のホット・ビィ製のゲームソフト「火激」は、当社制作による業務用ゲーム「火激」とは全く関係のない別のゲームですので、ここにユーザーの皆様にお知らせ申し上げます。
平成三年四月二十六日 (株)金子製作所」

ゲームの開発元が正規のライセンス契約を交わした移植版にこうした広告を出すのはまさに前代未聞のことだった。ユーザーにも動揺が広がり、『Beep!MEGADRIVE』にも読者からの質問が寄せられた。この件を受けてHOT・B側も抗議文を送り、「火激」問題はこじれにこじれた。

3 アーケード版「火激」とメガドライブ版「火激」

ここでアーケード版とメガドライブ版「火激」の違いを具体的に確認しておきたい。

双方ともに主人公は、画面を縦横無尽に移動しながら敵と一対一で対決し、相手を拳で倒して進んでゆく。アーケード版「火激」に明確なストーリーラインは存在しない。名もなき主人公が、「火激」を名乗る謎の軍団をひたすら倒してゆき、最後に「総長」と呼ばれる敵のトップを倒すとゲームクリアとなる。一方、HOT・Bのメガドライブ版は、「慶」という名の主人公が、不良チーム「火激」に暴行を受けた弟の仇をとるため戦うストーリーとなっている。また舞台も、アーケード版が野外なのに対しメガドライブ版は屋内で、ビルの階層ごとにステージ分けされている。さらにジャンプアクションが追加され、駆け引きの要素が加わった。こうしてユーザーに向けたこまかな修正がほどこされたメガドライブ版だったが、最大の欠点は動作の遅さで、アーケードユーザーの爽快感が奪われたことは如何ともしがたい事実だった。

先にも触れたが、メガドライブソフトは、セガのファン層を意識したビデオゲーム(アーケードゲーム)からの移植が多かった。だが当時、アーケードゲームとコンシューマゲームのスペックや容量の差は実に大きく、メーカーはグラフィックやアニメーションの簡素化、ゲームボリュームの削減などあらゆる工夫を講じてコンシューマに合わせた再構成をめざしていた。たとえばファミコン版「グラディウスII」は、アーケード版にオリジナル要素を追加して満足度を高め、マスターシステム版「R―TYPE」は裏面の追加情報などで補足説明を入れた。ファミコン「源平討魔伝」のようにゲームジャンルごと変えて大胆にアレンジする奇策に乗り出すメーカーもあった。

では「火激」の移植は一体どのようにおこなわれていたのだろうか。

実をいうとそれはHOT・Bにもわからなかった。HOT・Bは移植版の設計だけおこなって、実際の開発を大阪の会社に丸投げしていたからである。これは当時の彼らのいちじるしい拡大路線に起因していた。

89年から90年にかけて、HOT・Bはリリースするタイトルの数やハードの幅を急速に広げていた。この時期の発売はコンシューマ7作(内1作は発売元ピクセルの「陽炎伝説」)、アーケード2作(共に発売元タイトー。1作はナツメ開発「パラメデス」)、MSXを入れたパソコンゲーム3作。メガドライブのほか任天堂のゲームボーイにもタイトルを供給するようになり、パソコンでもSLIMYERの対応機種X68000に初参入するなど、ノウハウ不足も相まって外注を多用する傾向が強まっていた。

そんなわけで「火激」を大阪に任せ、彼ら自身としても奮闘努力していたのであるが、大阪からは詳細がまるで上がってこず、状況がわからぬまま時間だけは経っていった。そのころ、先のインタビューにも登場した栗山潤は獅子奮迅の働きがわざわいし、体調を崩して治療に専念していた。2カ月ぶりに出社した栗山に高橋社長は「楽な仕事」を用意して待っていた。メガドライブ「火激」の出来上がりを大阪へ確認しに行けというのである。

現地で栗山が見たものは、たったひとりでバグだらけの現物をいじるプログラマーの姿だった。目当ての「火激」は動作もおぼつかなく、キャラクターのグラフィックは崩れていた。「データが入らない」と訴えられ、慌てて内部を見てみると、アーケード版のグラフィックデータをそのままメガドライブのカートリッジに流し込み、容量オーバーでパンクしていた。

「火激」は、基本的なゲーム性はアーケード版に忠実でありつつ、ストーリーラインや操作系統などをアレンジして設計されていた。開発会社はアーケード版のデータを愚直に流用しようとし、結果としてゲームが壊れかける事態を招いていたのだ。

栗山はその場で全面的な修正を決定、ここに「火激」がメガドライブ第1弾となる展開はなくなった。栗山は膨大な修正を細かくチェックし、東京から大阪への遠隔で指示を出し続けたが、これを理解しない大阪の開発会社の社長と揉めて状況はさらに混沌とする。HOT・B高橋社長の仲裁で何とか開発は続行されたが、栗山は降り、目指すレベルへの修正もならぬまま、1991年4月26日、ついに気の毒な「火激」はリリースされた。そして同日、金子製作所による前代未聞の移植版全否定宣言が新聞紙上に掲載されたのだった。

4 まとめ

アーケードゲームの絶対的な強者セガが発売した16ビット搭載のコンシューマハード、メガドライブ。メーカーとスペックの違いはそのままユーザー層の違いであった。ユーザー層の拡大をめざすHOT・Bは果敢にその波に挑戦したが、アーケードからコンシューマへの移植の課題に足をすくわれる。それは彼ら自身のせいばかりではない。ただ、延期に次ぐ延期で繰り返された「火激」広告のキャッチコピー「あのアーケードの迷作が帰ってきた!」という煽り文句は、ひたすら待つ身の金子製作所を少々苛立たせていたかもしれない。それはいかにもHOT・Bらしい、悪ノリめいた軽快さに溢れている。

次回はHOT・Bの実際のメガドライブ第1作「インセクターX」を取り上げたい。彼らが精魂傾けてつくったこの作品はスタイリッシュで、HOT・Bの底力とすぐれたセンスを感じさせる。それは「火激」リリースの前年、1990年のことである。行く手にはすでにスーパーファミコンの影が見えている。