HOT・Bは1980年代から90年代前半にかけて活動したゲームメーカーである。「ザ・ブラックバス」「中華大仙」「鋼鉄帝国」「スーパー上海ドラゴンズアイ」など多彩な作品を手掛け、近年では1987年発売のファミコンゲーム「星をみるひと」がNintendo Switchで復活して話題となった。

本稿では今回から数回にわたってHOT・Bの足跡をたどり、ゲーム勃興期を生きたこの中小ゲームメーカーの活動を可能な限り明らかにしてゆきたい。HOT・Bの挑戦の数々に、われわれは有名メーカーとはまた異なったゲーム史の豊かな広がりを見ることになるだろう。



ー 広告代理店ファースト・ファーマーズ ~「そうだ!ゲームやろう」
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「東中野丸新ビル」HOT・B最初の社屋、東中野丸新ビルの外観。(2018年撮影)

1980年代初頭、東中野の広告代理店ファースト・ファーマーズは、業界では珍しくコンピュータに理解ある広告代理店として知られていた。社長の高橋輝隆は自らを「さわやかな文学青年」と称する純然たる文系の人だったが、役員の勝又展は理系でパソコンに強く、それがあってかメインクライアントは関東電子株式会社。ほかにCSK株式会社、ブラザー工業などと取引して業績を伸ばしていた。

CSK(2011年からSCSK)は1968年創業のコンピュータシステム会社である。1981年からオリジナルソフトを手掛け始め、82年秋、こうしたソフトを扱うCSKソフトウェアプロダクツを設立した。

高橋社長によると、事はこのCSKソフトウェアプロダクツの矢野が「そうだ!ゲームやろう」と思い付いたことから始まった。矢野はこの計画への参加をファースト・ファーマーズに打診し、元来ゲームに興味のあった勝又が「任せてください」と快諾したというのである。

とはいえ社内には勝又以外パソコンに詳しい人材はおらず、自力でゲームを開発するのは不可能だった。高橋は「企画や広告パッケージはうちでやるから、プログラマーを見つくろってほしい」とCSKに依頼。だがゲーム制作を経験しているプログラマーは見つからず、ビジネスソフトのプログラマーを寄せ集めてなんとか制作体制をととのえた。後年まで指摘されるHOT・Bの体質……企画や発想力に富むが技術面が弱い……は、こうした出自に拠るものであったかもしれない。

こうして1982年末、広告代理店ファースト・ファーマーズのパソコンソフト企画部門が立ち上がった。一連の展開を積極的に推し進めたのはむろん勝又だったが、ゲームで事業を拡大しようとする意識は高橋社長自身のものでもあった。

当時、日本のゲーム業界は、二年前のインベーダーゲームの大ブームでコンピュータゲームに刮目してからまだ日が浅かった。任天堂はゲーム&ウォッチを発売し、「ドンキーコング」や「ギャラガ」など魅力的な作品も出てきていた。またメーカーはハドソン、光栄、ナムコなどが参入を果たしていた。だが今日のゲーム市場を彩る存在が出そろったとは言い難い。アーケードゲーム市場は活発化しつつあったが、パソコンゲームやコンシューマゲームに関しては国産市場はいまだ黎明期だったといえる。しかし雑誌『ログイン』は盛んにゲーム先進国アメリカの活況を報じ続け、誰もがこの分野の来るべき隆盛を感じていた。

CSKの創業者大川功は、コンピュータ時代の到来を捉えて他業種から情報サービス業に転じた一大起業家だった。大川は1983年セガの筆頭株主となり、その後もアスキーの存続に貢献するなどゲーム業界でも大きな存在感を発揮する。時勢に敏なる広告業界の一員としてファースト・ファーマーズが、こうしたクライアントとのゲーム業界参入に大きな期待を寄せていたのは想像に難くない。



二 HOT・B設立 CSK時代

1982年末、広告代理店ファースト・ファーマーズのパソコンソフトビデオ部門が立ち上がり、翌1983年7月、ゲームメーカーHOT・Bが設立された。社名は「クールなAよりホットなB」。当時「クール」が賞美されていた時流に逆らって、自分たちはクールなエース(主流)ではなくホットなBで行くのだという反骨から高橋社長がつけた名前だという。東中野駅そばの丸新ビル3~5階にオフィスをかまえ、かくしてHOT・Bは船出した。

とはいえその方向性が特に決まっていたわけではない。この後かれらはCSKのもとで幾つも作品をリリースしてゆくが、それぞれの制作事情や企画の出所などはすべて不明である。ちなみにCSKは1983年3月に東映グループと提携し、「発売元:東映ビデオ」としてFILCOMというブランドを手掛けていた。このFILCOMブランドにHOT・Bの手掛けたゲームが複数作品入っている。また、後述するLOVECOMはCSKが立ち上げたアダルトコンテンツブランドだが、このアダルト路線もHOT・Bは数多く作っていた。

かれらが最初に作ったソフトのタイトルは残念ながらわかっていない。ごく初期に携わった作として可能性が高いのは「仁義なき戦い パート1」「大奥(秘)物語」「あしたのジョー」とされる。

なお雑誌媒体の記録として早いのは、雑誌『Oh!FM』1983年12月号/84年1月号合併号(第6号)にとりあげられた「首相の犯罪」「道鏡」だろう。『Oh!FM』はこの号からFMシリーズの新作ソフトを紹介するコーナー「SOFT REVIEW」を始めたが、ここに光栄マイコンシステムの歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」、ラポート株式会社の「機動戦士ガンダムPART1 ガンダム大地に立つ」などと共に、HOT・B製作のタイトル「首相の犯罪」と「道鏡」の名前がみえる。

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日本の首領首相の犯罪

日本の首領「首相の犯罪」
(1)アドベンチャーゲーム (2)TB(マニュアル付) (3)4,000円 (4)FMー7 (5)BASIC+マシン語 (6)なし (7)東映ビデオ(株)(注 TBはカセットブックタイプのこと)
「ロッキード事件の被告、元首相タナカの犯罪をあばくゲームです。あなたは検察官となってタナカの犯罪をあばくべく、捜査をすすめます。が、捜査日数は10日しかありません。また得点が低いとタナカを実刑にするのは無理。アドベンチャーというよりシミュレーションといった感じですが、新しいタイプのゲームといえます」(『Oh!FM』6号)

ロッキード事件の公判は1977年1月に始まり1983年10月12日ついに判決が下された。そのタイミングにぶつけて元首相を実刑にするゲームを出すという、このあまりにも新人離れした試みがCSK、HOT・Bどちらの企画によるものか、残念ながらすべては不明である。FILCOMブランドとして、1977~78年の東映の任侠映画「日本の首領」シリーズとの関連もあろうか。

なお、「首相~」と共に載った「道鏡」はアダルトなお色気もの。またここには登場していないが、最初期の作のひとつ「脱出 妖気の樹海 涅槃の森」も忘れることはできない。魔界といわれる青木ヶ原の樹海に迷い込んだプレイヤーが、キーワードを探してそこから脱出するといった内容で、パッケージには「初めて霊の世界を取り上げたアドベンチャーゲーム」とある。

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脱出妖気の樹海

《 サア トリツカレルカ?ダッシュツスルカ? 》

樹海には蜂の大群や狂ったイノシシなどが現れる。地面から手が伸びてくる。木にぶらさがった白骨死体の地縛霊をなだめるにはどうすればよいか。

プレイヤーに魔界を体験させるという触れ込みの本作は、当の制作現場そのものが激しい霊障におそわれて後年までHOT・B社内で語り継がれるいわくつきの作品となった。

CSKソフトウェアプロダクツのもと、HOT・Bはこれらの怪作を含むさまざまな作品を手掛けていった。制作したのはゲームだけではない。「グラフィック・キャンバス」なるグラフィックソフトなども開発した。企画・販売元は株式会社アイ企画。開発元は「CSKソフトウェアプロダクツ/HOT・B」とある。『Oh!FM』誌で半年以上広告が打たれ、かなり力を入れて売り出されていたようだ。



三 「温泉みみず芸者」開発中
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温泉みみず芸者

高橋社長によると、アダルト路線を手掛けようと言い始めたのはCSKソフトウェアプロダクツの矢野だったという。

アダルトゲームの元祖とされるものは諸説ある。一説には1979年ハドソンの「野球拳」をその嚆矢とするが、ほかに光栄のストロベリーポルノシリーズ「ナイトライフ」などが知られている。それでも当時ゲーム業界のアダルトコンテンツは実に微々たるものだった。ここに着目したCSKはアダルトゲームブランドLOVECOMを立ち上げ、1983~84年、HOT・Bはこの分野の作品のOEM供給に注力していった。

当時HOT・Bが開発した代表的なアダルト作品をひとつ挙げておこう。FⅠLCOMブランドで1984年1月発売された「温泉みみず芸者」である。内容は、性遍歴を重ねる温泉芸者ハツエが性豪竿師の段平とセックス合戦に挑むバトルもの。ハツエと段平、先に興奮度100パーセントに達したほうが負けとなる。発売元は東映ビデオで、1979年東映で封切された池玲子主演の同タイトル映画をゲーム化した注目の一本だ。

のちに「サイキックシティ」をつくり、HOT・BのSF路線開拓に大きく寄与した栗山潤は、その入社時「温泉みみず芸者」の隠語飛び交う開発現場に行き合わせたことを今でもはっきり覚えている。

こうした状況を高橋は内心快く思っていなかった。ゲーム関係は勝又に一任していたがアダルト路線は高橋の本意ではなかった。よかれあしかれ、下請けのさまざまな洗礼を受けてHOT・Bは着々と力をつけてゆく。特にアダルト路線では、この分野で一時代を築いたとまで言われるようになった。

1984年、HOT・Bは「GA夢」(ガム)というブランドを立ち上げ、「ザ・ブラックバス」「西部の成りあがり」などを発売した。釣り好きの勝又が丹精込めてつくりあげた「ザ・ブラックバス」は、雑誌『月刊フィッシング』と提携して売り出され、初期のみならず全期を通じてHOT・Bを代表するヒット作のひとつとなった。下積み時代を経て、HOT・Bはようやくソフトハウスとして自立する時期に来たのだった。