今回のソドムスクールのテーマは「哭きの意義」ですが、これは前回の講義における実践で私を悩ませた事象から取り上げていただくことになりました。
その事象とは、「手配がやたらと対子になる」こと。
面前で七対子を狙うべきなのか、いっそ鳴いてでも対々和へ持っていくべきか、うんうん悩んでいる間にチャンスを逃して和了できず、ということがちらほらあったのです。
私は普段、ゲームセンターで麻雀ゲームをやる程度です。
その際にはわりとポンポン鳴いて早上がりを目指すことが多いのですが、実際の牌で打つと相手の緊張感や空気、表情、仕草、声などの情報が多いせいか必要以上に警戒してしまい、何となく面前であがらないとダメな気がする、という強迫観念みたいなものが芽生えてしまいます。
ですが、実践と岩田部長の解説を通して「そもそもなぜ鳴く必要があるのか」という点を、知ることになります。
「鳴くべき時に鳴く」ことができれば、必要以上に警戒する必要はないわけで、結論、私はその見極めが不十分だったのです。
麻雀は和了することが最終目的なのですから、まず自分の手を進めなければなりません。
つまり、「このままでは自分の手が進まない」と判断した時に鳴くわけです。
それは当たり前じゃないか、と言われて当然かと思いますが、私はこの判断を、「自分の初期配牌とツモ牌のみ」で判断していました。
判断材料はそれだけではなく、「対戦相手の調子の良し悪し」でも行わねばならなかったのです。
実は私が授業に後半からで、すでに実践編に入って東一局を終えたところでした。
岩田部長と交替し、状況は上家の八巻さんが好調で和了した後。
この時点で、単なる配牌やツモだけではなく、「八巻さんが好調=果たして面前でツモるだけで八巻さん以上に早く和了できるのか?」という状況でも判断ができるのです。
当たり前? そうでしょう、しかし私には目から鱗でした。
私は「自分の配牌・ツモ」のみの狭い世界でしか鳴きの判断をしていなかったわけですから、結局「麻雀は運頼み」と自身が判断していたことにと気づかされたからです。
私は麻雀を始めた時は「どうせ偶然が幅を利かせる、運頼みのゲーム」と思っていました。
しかし、麻雀は一人で行えるゲームではありません、4人、最低でも3人はいないと成立しないゲームです。
つまり、配牌やツモなどの単なる運だけで決まるのではなく、相手の様子から判断できることも多いはずです。
相手の様子を元にして自分の動き方を考え、それで十分回復を図れるわけですから、運頼みなんてとんでもない誤りだということに、この鳴きの講義を通して再確認できました。
仕事をするうえでも、単に生活していくうえでも、「運頼み」な瞬間はたくさんありますが、それで流されていては苦しいだけです。
一人きりで仕事をしているわけでも、生きているわけでもないので、同僚、お客様、友人、伴侶、周囲の方々の様子を見たりしながら、自分がどう動いたら事態の好転につながるのか、そういう思考や判断は誰でも本来しているはずです。
普段普通にしているはずのことを、麻雀をするうえでも行っておくべきだった、とたくさんの「当たり前」に今更ながら気づかされることの多かった講義でした。
神作