初めまして。まんだらけの画太郎先生担当のわきです。
本当は画太郎の事を書くのは嫌です。
何故ならそれは自分の事を書くのと同義だからです。
ですがこういう場で私が画太郎の事を書かないとウンコ投げられそうなので書きます。
「珍遊記-太郎とゆかいな仲間たち-」ジャンプコミックス単行本第1巻の表紙
「其之一 うんめいの出会いの巻」
まずは歴史から
漫☆画太郎先生は1989年12月に少年ジャンプ新設のギャグ漫画家新人賞「GAGキング」大賞を受賞して漫画家デビューされました。当時高校3年生で若干17歳。(お誕生日が3月で早生まれ)約800通の応募作品の中からの華々しいデビューでした。掲載記事の写真には後に担当編集者となる中村タイ造氏との貴重なツーショットも。思い出したら高校3年生の画太郎の半裸とか私を萌え殺さす気かとついジャンプに突っ込みを入れてしまいますが(そういう写真もあったのです)とにかくありがとうジャンプ~画太郎先生を発掘してくれて~との思いは未だ消えず。なのでジャンプの悪口は許しません。
大賞受賞後の約1年間はタイ造さんとの二人三脚で漫画家修行をされていました。そして「DRAGON BALL外伝」「エスカレーション」等の未だ色あせない傑作を生み出しついに1990年12月に初めての連載作品「珍遊記-太郎とゆかいな仲間たち-」をスタートさせます。実は私は珍遊記を最初から読んでいたわけではありません。わりと途中から読み始めたのですが当時は私の頭がおかしくなっていて(思春期)心配した親が子どもに娯楽を与えようと私にジャンプを手渡し始めたのがきっかけでした。私はすごくトンガリキッズだったのでそんなありがたいジャンプだったのに全然面白くなく「読者に媚びやがって!(気にいらねー)」みたいな事しか思えなかったのですがただ1つだけ気になる漫画があり・・それがこの「珍遊記-太郎とゆかいな仲間たち-」でした。
私は幼少期かなりのガラスのハートで例えばアニメのDr.スランプを見ていても「がっちゃんに家食べられる千兵衛さんかわいそう」と楽しめないような奴で漫画を(親は娯楽と思って渡してくれたのですが)読むのはむしろストレスで何故ならば主人公が苦しんだり苦しんだり苦しんだりするのをとても見てられない、なんでわざわざそれ読んで私も苦しまなければならないのか・・という感じでした。しかしある日岡田あーみん先生の「お父さんは心配性」に出会ってから漫画・本に対する免疫が付いてしまいました。(急展開)あーみんを読んでなければ画太郎を理解する事はなかっただろうと思うとまさに「うんめいの出会い」だったと思います。
私の身の上話が長いですがここからが重要です。さて、そんな今で言うひどい「中二病」だった私が珍遊記を気になる理由は自分でもわかりませんでした。ただある日その謎が解明されたのです。そう、画太郎先生は単に「オモシロイ」漫画を描くだけの方ではなかった、この方にはプラスアルファ、主張というものがあったのです。右に倣えで描かされてる感がはんぱない他の作品には無い強力な意思というものがあったのです。それに気付いたページがこちら↓
あれ、なんかディスってる???
私は大変に頭がバカなのですがこれだけ分かりやすく売ってる喧嘩にはさすがに気が付きました。しかし・・この人(画太郎)はジャンプの人だよね?だって柱(コメント)にも漫☆画太郎先生の作品が読めるのはジャンプだけって書いてあるよね??? といやいや、まさか~(ハッハッハ)とドキドキしながらもまだ疑っていました。しかしついに決定打が。
は、はうあ・・・
それがまさかの坂だったのです。太郎を倒すために西洋からやってきた外国人パーティーの仲間割れのシーンですがザーマスVSカイカイの頭上に浮かぶゴツい石で築かれた「友情」の文字・・それがパラパラと砕け散り次のページでは地面に落ちた石の瓦礫が風に吹かれて無くなってしまいます。
このすさまじい比喩!!!
ジャンプでデビューした新人の漫画家なのにジャンプの三本柱(友情努力勝利)の批判してる!!!(※しかもドラゴンボールがナメック星編の黄金期ですよ!)
私はあまりの事に一晩中オイオイと号泣し続けました、それこそ体内の水分全部持ってかれるんじゃくらいの勢いでずっと・・
この世にこんなカッコイイ大人が居たのか!!!
私は一生この方に付いて行こう!!!
私は人一倍文句が多いし愚痴愚痴しているしそのくせその文句を本人には言えません。当時酷かったのですが終いには山に入って川の水だけ飲んで暮らしたいとか・・ともかく現実逃避だけに自分の居所を求めていました。
この私との違い!!!
・・・
以降私はその時から一切変わらぬハイテンションで画太郎先生を追い続けています。私が変わらないのは先生もそのテンションを貫かれているからで、我が事ながら、画太郎先生の漫画を読解する事のできた自分の運命には感謝しております。
以上、私が画太郎先生のファンになったきっかけと、珍遊記、画太郎先生の偉大さの話でした。私は毎日ツイッターで「画太郎」という単語を検索して全チェックしているのですが良く見るツイートで「漫画は画太郎しか読まない」というものがあります。要するに画太郎先生という方は漫画の才能があったから漫画家として世に出て来られましたが、仮に漫画の才能が無かったとしても決して市井の1人として人生を終わる方ではなく、必ずや何かしらの形で人の前に出てくるお方、そういう存在のお方であると断言できます。そういう方だからこそ「漫画」という垣根を越えた大勢のファンが吸引されるのです。私にとってはロックスターのような存在で、まさしく去年の個展などはフェスのような感覚でした。ギブミーチョコと歌ってましたよ、心の中では・・
心の中どころじゃねー
後は珍遊記のざっくりした解説と薀蓄、私の好きなシーンなどを少々ご紹介します。
珍遊記は「西遊記」を元ネタにした作品です。玄奘は玄じょう、孫悟空は山田太郎で「天じく」を目指すという大枠があるのですが途中で寄った酒場で乱闘する話がメインとなり天じくへの到着は無く終わってしまいます。↑で長々と私が画太郎ファンになったきっかけを語らせていただきましたがもちろん反骨精神にだけ惚れたわけではなく画太郎先生の絵自体や登場人物の喜怒哀楽の繊細さ、まっとうな道徳観、少年ギャグ漫画らしい明るさ、全方向に効力のあるアホ部分などなどその他にもキラ星の如き魅力が満載です。
リーダーのサッカーの例え
例え話だけでまるまる1話。贅沢な連載枠の使い方です。この話大好きです。ついでに生存確認法も好きです。
かの有名なドラゴンボールネタ
この部分はLINEのスタンプになっています。鳥山明先生の心の広さは海の深さと同じです。
じゅうまんえーん!!
この原稿が当たってる方が居まして・・なんと羨ましい。かぶいてる服は一着じゅうまんえんだと知った瞬間。
画太郎先生の漫画には良く「ドキドキ」という擬音語が出てきます。要するに「ドキドキ」という状態に陥ってしまうような心理状態の人、そういう性格の人が多く出てくるという事です。私はドキドキしない神経の人が苦手なので、画太郎先生の漫画を読むと安堵感を得られるのかも知れません。※珍珍さんが自分のラーメンをお客さんに食べられて美味しいと言ってくれるかどうか見守り、うまい!!!!と言ってもらえたところ。なんとハートフルな物語なのでしょう。
もうジジババ率の高い事高い事、そもそもGAGキング大賞受賞作「人間なんてラララ」からして老人が活躍する話だったので何もいう事は無いんですが誌面の老人率は日本一かも知れません。
私の永遠のアイドル、ザーマスの最後の方の姿。牢屋に入れられた姿は単行本化の際に書き換えられました。あまりにもかわいそうという声に画太郎が配慮を。私はこのザーマスの生きる力によって当時のあの頃を生きました。このプリントのTシャツがあったら喜んで着ます。
単行本第6巻の表紙です。作品のキャッチコピーを読者から募る企画があり珍遊記は「風に吹かれて珍遊記」に決定されました。それを受けてのイラストです。このイラストの太郎はフィギュア化の際にも再現されています。来年は実写映画化されるので色々グッズ出てくれるかな。お金貯めておきます。
単行本についてですがジャンプコミックスの新書サイズ全6巻の他、A5サイズ全4巻、B6サイズ全4巻が出ています。私のオススメはほぼカットや描き直しの無い新書サイズで、A5サイズは表紙が描き下ろし、カラーページ再現など魅力もありますがカット部分が惜しいところです。描き直し部分はその頃つっぱり桃太郎を連載していた頃だったので筆使いにその頃のタッチを見ることができます。B6サイズは「珍遊記2-夢の印税生活編-」刊行前に新装版として発売されたものですがこちらもカットが目立ちます。表紙は描き下ろしですがこちらもやはり新書が手に入らないなら致し方ないくらいの存在かと思います。
2015年は画太郎先生デビュー26年目の年でした。来年は画太郎先生からのラブレターが届くのでそれを心待ちに日々を過ごします☆
ありがとうございました。
(中野店/脇)
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中野店 わき